大学の授業を聞くということ

今日、授業を受けていて、感じたことを少し。

 

今日、受けた授業の先生は、非常にお話のうまい方だった。というのは、年金と社会保障についてのものだったのだが、主張したい内容を、世の中の常識的な考え方と対立させて、話されていたからだ。

 

その場、集中して聞いていても、わかる話とわからない話がある。今日の授業を集中して聞けた理由は2つくらいあると思っていて、一つは内容が基本的なものであったということ、もう一つは、話の途中で「わかった気にさせる」例えや、あえてする極端な批判が、話が右から左へ流れるのを、防いでいたからだと感じた。

 

この二つの要素だが、話し手からみて、これを考えるのは大変なわりに、話し手の満足度は変わらないように思う。自分の主張、思考過程をそのまま話しても、あるいはそこに、「わかった気にさせる」例えを使って、相手を引きつけても、そこで話されることの本質は変わらないからだ。逆に、そのまま話す、ということを諦めるようでいて、普段から学問に真摯に向き合っていればこそ、面倒なことでありがちなものではないのかと感じる。

 

しかし、私が今日集中して話を聞けたのは、明らかにその本質から外れた部分によって、であった。そういうはなし。